伊達家との関わり

伊達家との関わりの写真

伊達家とその史跡

 当地方は、伊達宗遠(8代)が長井広房氏を攻略(1380年)以降伊達家が支配し、7代(儀山政宗、氏宗、持宗、成宗、尚宗、稙宗)にわたり、「高畑城」を中心に施政が行われてきた。高畠は、伊達家の本拠赤舘城(現桑折町)と地理的にも近く、しかも二井宿峠を背に要害の地であるところから選定したといわれる。
 その後、晴宗(15代)から米沢城に移り、貞山政宗(独眼竜政宗として有名)の天正19年、岩出山城(岩出山町)に移されるまで、210年間、置賜を統治した。

儀山政宗の墓

 明治21年に伊達家の家職作並清亮氏が公墓調査をするまではその存在すらわからなかったが、応永12年9月の湯の原口の戦いで倒れたとの当時の記録から、高畠城付近を調査、ついに野手倉はずれの山すそに五輪2基を発見。
 九代政宗(法名は東光寺殿儀山円孝大居士)と、その室、紀氏(輪王寺殿蘭庭明玉尼大姉)の墓であることが判明した。
 明治37年9月、伊達家は再び仙台より作並氏を派遣し五百年祭を執行、新たに墓標2基を建て、永く公を弔う。

夏刈伊達家の墓

 松川の右岸川西街道のそばに4基の五輪の墓石がある。儀山政宗夫婦、独眼竜の父輝宗と殉死した重臣遠藤山城守の五輪塔である。

伊達氏時代の山城居館跡

 輝宗・政宗の頃、伊達氏は高畑城のほか、要所要所に家臣を配し統治したが、一部長井氏時代の砦も含め、そのうちいくつかの山城居館跡が残っている。主なものとして屋代館(二井宿峠)、志田館、塩森館、竹森館、一本柳館、亀岡館、館ケ崎館があるが、一部は古戦場でもあった

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